最終回が意味深すぎる!「ドラゴンボールGT」の最後が明らかに
今でも時々話題となる「ドラゴンボールGT」。
本編はTV放送が1996年。その翌年の暮れには最終回を迎えているので、既に四半世紀近く経っていることになる。
ちなみに鳥山明がストーリー作成に携わっていないためか、物語については賛否両論である。
また、最終回はネット上でも「スタッフの自己満足」「意味不明」といった声も多く聞かれる。
だがドラゴンボールGTの最終回は、決してアニメスタッフのやりたい放題ではなかった。
むしろそこには、鳥山監督への深いメッセージが隠されていたようだ。
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ここがポイント!
そもそも「ドラゴンボールGT」ってどんな話?
ドラゴンボールGTの「最終回」を語る前に必要なのは、原作には存在しないこの作品だけのオリジナル設定を知ることだ。ファンからすると「何をいまさら」だが、ザッとおさらいしておきたい。
原作とドラゴンボールGTの最大の違いは、なんといってもアイテム「ドラゴンボール」にまつわる設定だ。ドラゴンボールGT以前のドラゴンボールは「ただ集めて願いを叶える」だけで、他に特別な意味を持たないアイテムだった。
しかし、この作品では「願いを叶える度に悪いエネルギーが蓄積する」という設定を作ってドラゴンボールに新たな意味というか、「存在価値」を見出したのだ。
今までかなり短期間に多くの願いごとをしてきたため「悪いエネルギー」は爆発寸前にまで貯まっていた。ドラゴンボールGTでとうとうそのエネルギーが形となり、「邪悪龍」が登場するに至ったわけだ。
細かい部分を含めれば他にもまだオリジナル設定は存在する。しかし今回は、最終回の意味を解くのに必要な部分だけ抜粋させてもらった。
ドラゴンボールGT、最大の敵「一星龍」との戦い
最終回の直前に戦ったドラゴンボールGT、最大の敵「一星龍」。このバトルの中で悟空が一旦死んだような描写がある。
ナレーションでも、確かにこのとき彼が死んだようなことを語っていた。しかし「奇跡」が起きて復活。
ついでに宇宙全体から集めた元気玉で、ついに一星龍は倒される。この意味不明すぎるご都合展開が、ドラゴンボールGTの謎を深めているのではないか?
結論から言うと悟空は確かにこのとき死んでいた。そして神龍と一体化するか、力を借りて復活したのだ。
もちろん筆者の憶測だがそう考えることができる。その証拠に、この元気玉のシーンではパンが悟空の姿を見て「神様みたい」と意味深な発言をしている。
これは暗に神龍(という神様)と一体化したことを示しているのではないか?つまりあの奇跡の復活は、神龍と1つになったことを意味していたのだ。
さらにこの説について、ドラゴンボールGTのスタッフも興味深いコメントを残している。
「ドラゴンボールGTの企画時から、最終回は悟空を生死不明のイメージにする予定だった」
これはドラゴンボールGTの脚本を手がけた人物の発言である。かなり意味深なコメントだ。
故に最終回で、神様と一体化する設定が「初めから準備されていた」とも考えられないだろうか?
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「最終回」で悟空が神龍の背中に乗って旅立つ理由
一星龍を倒した後、最終回で悟空は神龍と共にどこかへ旅立ってしまう。この展開の真意もよく分からないが、何より意味不明なのは神龍の現れるタイミングである。
ドラゴンボールGTの最終回で、神龍は誰からの呼びかけも無いのに急にみんなの前に出現する。更に邪神龍などの設定を理由に「願いを聞けるのはこれで最後」と突きつけるのだ。
しかし悟空たちは、いつものように犠牲者の復活を願う。願いを聞き届けた神龍はこれで消えるのかと思いきや…
「さあ行くぞ」
なぜか悟空に声をかける。リアルタイムでドラゴンボールGTを見ていた多くの視聴者がこの瞬間、ポカンとしただろう。
「どこに?」もしくは「なんで?」
神龍の言葉の意味が分からずに疑問を覚えたはずである。ところが悟空は全てを知っていたかのようにあっけらかんと、「もうそんな時間か」と答えた。
まるで、2人にだけその意味が分かっていたかのように…しかし奇跡の復活の裏に「神龍との一体化」があったとすれば意味も繋がりやすい。
恐らくだが、悟空はよみがえる直前に神龍と何かしらの「契約」みたいなものを結んだのだ。そしてそれは、タイムリミットが存在するものだった。
最終回において「最大の謎」とされるこのシーン。例えば神龍を天国からの使者・悟空を成仏間際の幽霊に見立てると…
何となく2人のやり取りの意味が見えてくるのではないか。すると、神龍と共に旅出つ流れにも説得力が出る。
彼らはどこかに向かう途中で、クリリンやピッコロの元に寄り道をする。そこで彼らとの思い出や、初代ドラゴンボールからの出来ごとを回想するのだが…
クリリンたちがちょっと目を離したスキに、悟空はすっと姿を消してしまう。まるで幽霊が枕元に立つということわざの様に…
一見すると不要なシーンとも思えたが、これもやはり最終回で「悟空が死んでいた」ことを意味する重大な描写だったのではないか。
最終回の謎…悟空がドラゴンボールと「同化」した意味
仲間たちへの挨拶を終えた悟空に訪れた最後の結末。神龍の周囲に浮かんでいたドラゴンボールが悟空の体に吸い込まれ、悟空とともに全て消えてゆく。
ドラゴンボールGTの最終回で最も意味深なシーンだ。というより、この場面が存在するおかげでドラゴンボールGTの最終回が未だに「謎」のままな気さえするが…
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現実的に考えたらあまりにも意味不明な場面だ。しかし、あれが「何かのメッセージ」であったと考えるなら話は別である。
もはやあの世界では無用となった「ドラゴンボール」。それが同化するということは…
やはり悟空もあの時点で「既に世界から不要の存在になった」という演出ではないか?もちろん、単純に神龍と一体化したことを意味する表現と捉えることも可能だ。
だが筆者は、恐らく「両方の意味」があったのではと考える。そのまま消えていったのも、幽霊になって成仏したと思えばつじつまが合っている様に思える。
また、少し解釈は変わるが、ドラゴンボールは言い換えれば「悟空」の物語でもあった。つまりドラゴンボールという作品は初めから悟空と一体だったので、終わるときもこの「2つの存在」は一緒でなければならない。
作品の集大成とも言えるドラゴンボールGTの最終回で、どちらか一方が欠けるような展開…これだと「最終回」の意味がないのだ。
悟空とドラゴンボールが1つになることで、最終回に「特別な意味」を持たせたのではないだろうか。
「100年後」の意味…ドラゴンボールGTの最終回はナゼ未来に飛ぶ?
表現的なことを言えば、悟空がこの世から消えた瞬間にスタッフロール。これが「最終回の流れ」としてはベストのはずだ。
ところがドラゴンボールGTでは、わざわざ100年後の世界を描いている。そして原作から生き残っているのはパンだけ。
従来のファンからは「続編の可能性を潰した最低の最終回」と非難を浴びていた。だが、この「未来に飛ぶ」という設定…どこかで見覚えはないだろうか?
そう、原作の最終回もやはり「10年後」の未来に飛んでいた。作者の鳥山明が原作の最終回をこうした理由は「そのまま終わらせたかった」、つまり続編を作りたくなかったからと言われている。
しかしドラゴンボールGTは、そんな鳥山氏の意向を半ば無視する形でスタートした。言うなれば作者への冒涜にもとれる行いだ。
もしかすると、ドラゴンボールGTのスタッフに罪悪感があったのではないか?
そのため「未来の設定」という原作のオマージュをしつつ、更にそれよりすさまじい「100年後」にすることで「もう我々も続編は作りません」という謝罪の意味を暗に込めたのではないだろうか。
ドラゴンボールGTの「GT」は、一説には「ごめんなさい鳥山先生」の略とも言われている。初めからドラゴンボールGTのスタッフには、鳥山先生に対して申し訳ない気持ちがあったのかもしれない。
つまりドラゴンボールGTの最終回はスタッフの自己満足でもなければ、意味不明な物語でもなかった。アニメスタッフが鳥山明に捧げた「感謝と謝罪のメッセージ」だったのだ。
だが、ドラゴンボールGTの最終回から18年後。2015年7月から鳥山明原作によるオリジナルアニメ「ドラゴンボール超」がスタートした。
続編は作らないと言いつつ、やはり鳥山明自身にとっても「ドラゴンボール」には深い意味があるのだろう。ドラゴンボールGTの「最終回」に込められた意味を考えながら見ると、「超」にも別の面白みが生まれるかもしれない。