実は忍者だった!?松尾芭蕉の「奥の細道」のルートが凄いと話題に!

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「月日は百代の過客にして」という冒頭で有名な「奥の細道」。

俳句の形を用いた松尾芭蕉の紀行文とは日本人なら言わずと知れた文句であるが、実はこの道筋が近年「とんでもないルートだった!」と騒がれていることもまた有名なのだ。

しかし実際にどれだけキツかったのか?については、あまり知られていないようにも思える。

そこで今回は、「奥の細道」の意外な実態について深く掘り下げてみた。

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奥の細道は1日平均「16km」のルートだった!?

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「子いわく、三十にして立つ」なんて良く言われるが。なんと松尾芭蕉が奥の細道の旅に出たのは、近年の研究では「46歳頃」というのが一般的なのだ。

現代人の感覚からすればちょうど働き盛りではないか!と思われるかも知れないが、当時は敦盛という能楽で「人間50年」と歌われるほど寿命が短かった。

この時の46才と言えばそれはもうかなりの高齢であり、ともすれば現代人の70〜80歳と考えても差し支えないだろう。

そんな時代を先取りした高齢社会のスターとも言える松尾芭蕉だが、奥の細道で通ったルートもやはり凄かった…

元禄2年、西暦で言うところの1689年の3月27日に現在の東京・深川をスタートした松尾芭蕉。それから40日ほど後に、奥の細道で有名な一句「兵どもが夢の跡」で知られる平泉に到着している。

そこからルートを西に取って、翌月には「五月雨を集めてはやし」の句で有名な最上川のある山形に辿り着いた。

ちなみに最上川には、上記の有名な句に加えて「暑き日を海にいれたり」から始まる一句も「奥の細道」に書き込まれている。

しかしあまり知られていないので、ここぞという時にウンチクとして披露すると喜ばれるだろう。

松尾芭蕉は山形から日本海側を延々と下って、現在の新潟・富山・石川・福井の北陸四県を縦断する。さらに滋賀県から琵琶湖を迂回する形で岐阜県に入り、奥の細道の終点は「大垣市」になる。

3月に江戸を出発した松尾芭蕉が東北からUターンするルートでこの大垣に到着したのは、8月21日のこと。つまり約5ヶ月間…と言うことで大体150日ほどで奥の細道のルートを制覇してしまったのだ。

この「全ルート」が一説には約600里(現在でいう2,400km)とも言われていて、これを150日で制覇したという…

単純計算で1日あたり「約16km」も進んだのだから、松尾芭蕉は当時の平均寿命にしてはとんでもない事をしでかしているわけである。

もちろん当時からカゴや馬など…徒歩以外の手段もあるにはあったが、松尾芭蕉が奥の細道のルートを踏破するためにこれらの乗り物を使ったという記録はない。

つまり、自らの足でルートを制覇したと言うワケだ。しかも季節は初夏から晩夏にかけてである…

当然厳しい猛暑にも悩まされただろうし、雨の日だってあったに違いない。奥の細道が作られた当時は今と違ってアスファルトの道路なんかある訳もなく、足場の悪い所もあっただろう。

松尾芭蕉の出身は滋賀県の伊賀市という説が根強く、そのため「彼は忍者だった」という説も有力だ。

また東北から北陸周辺には、上杉家をはじめ江戸幕府(徳川)の敵になる可能性の高い、いわゆる「豊臣恩顧」の大名が多く存在した。

なので松尾芭蕉は「奥の細道」を作るテイで、ルート上にある大名家を「密かに視察していたのではないか?」と、こういった説もあるくらいだ。

さらにこうした陰謀論の最たるところだと、松尾芭蕉=服部半蔵と言うやや都市伝説色の強い噂まであるのだ。

しかし逆に言えばそれだけ松尾芭蕉の通ったルートや全行程が、当時の様々な条件を考えると「信じられない」という事の証でもあるのだ。

実際に松尾芭蕉が忍者だったかどうか、あるいは奥の細道の裏で大名家の視察を行っていたかは別として、彼の並々ならぬ熱意はこの全ルートを見ればハッキリと分かるであろう。

「奥の細道」が時代を越えた名作だと言われる所以は、こんなところにも存在するのだ。

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「奥の細道」はドコが出発点!?ルート起点問題とは

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江戸の深川をスタートして、9月5日の大垣を最終地点とした「奥の細道」のルート。この進路自体はハッキリしているが、近年騒がれているのが「ルートの開始地点はドコから?」という問題だ。

ちなみに深川であることに間違いはなく、千住大橋付近からスタートしていたと言うのが定説だ。

ところが、明治以降の区の合併などによって深川区が廃止され、千住大橋の北側が足立区。南側が荒川区に分断された。

さて問題は、松尾芭蕉がどちらの側を「奥の細道」のルートとして含めたのか?と言うことである。

北側をルートの起点としているなら『奥の細道・発祥の地』は足立区側に権利があるし、南側なら荒川区が主張できると言えよう。

様々な文献を見ても「千住大橋より出発した」と言った具合にしか書かれていないため、どこか釈然としない。

どちらの区も「松尾芭蕉の伝説を生んだ出発点」というネームバリューが欲しいらしく、この対立は橋の名前からしばしば「千住論争」と呼ばれている。地元住民の間では何気に有名な話みたいだ。

確かにルートの開始点が曖昧というのは、例えば奥の細道のルートを通って松尾芭蕉の追体験を…という聖地巡礼のようなことをしたい人にとっては少々ややこしい話ではある。

そして、仮にこの問題が四国お遍路の八十八ヶ所で行われていたとしたらそれこそ大問題だし、村上春樹の名作「色彩を持たない多崎つくる」も生まれなかった恐れすらある。

地元住民からすれば大切な話かも知れないが、松尾芭蕉ファン、ひいては奥の細道のためにもルート起点の問題となる「千住論争」は早めにケリを付けてもらいたいところだ。

 

ここがスゴいよ松尾芭蕉!「奥の細道」は後から書かれたもの?

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恐らく、多くの人が混同しているかもしれない。筆者も最近まで知らなかったことだが、松尾芭蕉は旅の途中に奥の細道を書いていたわけではない。

奥の細道は門人(弟子のようなもの)の河合曾良と共に東北から日本海側を旅した旅行記、あるいは紀行文という認識が一般的である。だがこの作品は、松尾芭蕉が旅を終えた後に書かれたものだった。

それを裏付ける証拠として、彼が奥の細道のルートを旅したのは1689年のこと。ただし作品の初刊発行はそれから13年後の1702年になる。

松尾芭蕉が旅に出た年齢は60才とか、あるいは70才だったと言う説を聞くことがあるが、その噂は作品の「発刊年」=「旅行中の年齢」と誤識した人たちから生まれたものである。

松尾芭蕉は決して移動中に、奥の細道を書いていた訳ではないのだ。これが松尾芭蕉の天才的なところで、普通は何年も前の記憶を頼りにそうそう作品なんて作れないもの。

なお松尾芭蕉自身は、旅の5年後の1694年に亡くなっているため「奥の細道」は全ルート踏破後から亡くなるまでの数年間に書かれたものとされているが、だとしても人間業(ワザ)ではない。

例えば、ほとんど同時代に活躍した浮世絵師の葛飾北斎。彼は富嶽三十六景に代表される「波しぶき」を肉眼で捉えていたと言われるが…

あれは現代の高性能カメラでなければファインダーに納められないとのこと…松尾芭蕉はもちろん、当時の天才と呼ばれる人たちはこうした常人では到底及ばない「天性の才能」を持っていたのかも知れない。

したがって、例えば山形県の立石寺に行っても「ああ、ここで松尾芭蕉は『蝉の声』という句を読んだのか…」などと思ってはならない。

恐らくその場所では「蝉うるせーな!」くらいにしか考えていなかったからである。まあ「思い出」は美化されやすいと言うくらいなので、松尾芭蕉もルート上では上記の様な心境だったのだろう。

と感じて納得するのが、我々一般人のせめてもの報いなのかもしれない…加えて、この作品の表記は「おくのほそ道」が正式だという説もある。

これは数点存在する当作品の原本のうち、初刊発行時に使われた表記を基準としているからだ。よって教科書でも上記の通りに表記されることがほとんどだそう。

ただし、実際の旅行ルートを指す場合には「奥の細道」と記すのが正しいという意見もあって、もはやどっち付かずな状況である。

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